海外Q&Aサイトの「歴史上、19世紀までの日本は朝鮮より弱かったの?」という質問から、回答をご紹介。


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■回答者1(韓国)
ノー。

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国の大きさを比較するシンプルなツール(The True Size Of ...)を使ったこのスクリーンショットから、日本列島がアメリカ東海岸と比較するとどれほどの大きさかなのが分かる。日本は今も、また過去もずっと非常に大きかった。日本人は謙虚だから、自分たちは混み合った島に住んでいると言いたがる。混み合った島であることは確かだが、しかし巨大な混み合った島でもある。

面積的には日本は377,000km^2、一方韓国と北朝鮮は合わせて約210,000km^2だ。したがって日本は朝鮮半島のほぼ2倍の面積がある。歴史的に見て、人口密度は同程度だったと思う。

中世(10世紀、朝鮮では高麗王朝)以前は、どちらの国も大部分が、見事な磁気や贅沢品を買えるのは土地を所有する貴族たちだけという農耕社会だった。朝鮮も日本も、産業革命と化石燃料の利用なしで到達可能な、鉄器時代の技術の安定した停滞期に入っていた。

軍事力は均衡していた。日本の海賊は朝鮮の海岸を襲撃したが打ち負かされた。1419年、朝鮮人は釜山からわずか50kmの対馬にいる日本の海賊を攻撃した。海賊が貿易権と引き換えに襲撃をやめることに同意すると、朝鮮人は引き上げた。

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しかし16世紀以降、すぐに状況は変わった。朝鮮(李氏朝鮮)と明の中国は、1世紀前に儒教の原理主義者たちに乗っ取られていた。これは儒教版のタリバンだ ― 極度に厳格なやり方で教えを解釈し、社会のあらゆる面に道徳的な制限を課し、特に女性の経済的および法的な権利を引き下げた。こうした儒者は職人と商人を蔑み、貿易を制限した。このため朝鮮では、また中国でさえ、深刻な停滞が生じ、16世紀後半に至ってもそれが見られた。

日本はこの儒教原理主義から害を蒙ることがずっと少なかった。天皇と君主(大名)の間の封建的な関係が維持されており、したがって権力の集中は弱かった。経済も朝鮮と中国ほどには厳格に制限されず、職人と商人は依然認められていた。ポルトガルの商人がアジアに到達する以前に、東京(当時は江戸と呼ばれていた)は中国の都市の大部分を超えて世界最大の都市の一つになっていた。日本はオランダとポルトガルとの貿易を始めた。

こうした経済力はまた軍事力にも転換された。1590年代、将軍・豊臣秀吉は日本列島の全土を征服した。彼は朝鮮を通って明を侵略することにした。恐らくライバルたちが討ち死にするか、あるいは少なくとも朝鮮を占領することに成功すると思っていたのだろう。どちらにしてもライバルたちは排除される。

日本の軍隊はどうにか朝鮮に上陸し、朝鮮の軍隊を敗走させた。彼らは朝鮮人が大規模なゲリラ戦を仕掛けるとようやく敗退し、韓国最大の国民的英雄にして海戦の天才・李舜臣将軍は朝鮮西海岸を制御することで勇ましくも日本の海軍を食い止め、また明は大規模な援軍を派遣した。それでも朝鮮人と中国人が半島から日本人を追い出すには、7年におよぶ戦争が必要だった。

産業革命前の社会がこれほどの期間、海を渡って遠征軍を出すことができたという事実は、朝鮮と明に比べていかに日本が裕福だったかを示すものだ。明朝はこの戦争の後財政的な困難に陥り、満州に清が興ると遂には滅亡へと向かった。朝鮮は、戦争とそれによって起こった飢饉から立ち直るのに数世代を要した。

日本は繁栄を続けた。1721年、江戸は人口100万人を擁する世界最大の都市になった。外国との貿易を大幅に制限する鎖国の時代の後も、日本は依然として豊かだった。19世紀後半までに、日本はヨーロッパから産業革命時代のテクノロジーを受け入れ、その後のことは歴史が ― 朝鮮と中国にとっては残念ながら悲しい歴史が、示す通りだ。



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■回答者2(台湾)
朝鮮も日本も、20世紀以前に少なくとも2000年の歴史がある。なのでこの質問は・・・歴史のどの部分のことを言っているんだ?

朝鮮が日本より確実に強かったのは高句麗の時代、特に隋と唐の初期(6世紀後半から7世紀前半)だったと主張したい。隋は恐らく100万におよぶ人間を動員したが、絶え間ない侵略にも関わらず高句麗を降伏させることはできなかった。唐には中国の歴史を通じても最高の皇帝にして征服者・太宗がいたが、その太宗をもってしても高句麗は征服できなかった。しかし太宗は、高句麗を弱体化させることには成功し、そのため彼の後継者・高宗は新羅の助けを得て高句麗を破ることができた。

これで分かるだろう:朝鮮はかつて非常に強く、強大な高句麗を倒すには一つの王朝、さらに史上最高の中国皇帝、さらにはその後継者と、ライバルである朝鮮の王朝の援助までが必要だったのだ。

隋の時代の日本はそれほど強くはなかった。事実、高句麗王朝の滅亡の直前、紀元663年に、唐は百済と日本の連合軍を白村江の戦いで破っている。

さて、明の末期、1592年に目を移すと、日本は確かに朝鮮より強かった。日本は、明が最後の最後に援軍を送って平壌から追い出さなければ、朝鮮全土を征服する寸前まで行っていたのだ。しかし、明も朝鮮も日本を相手にどれだけ苦闘させられたかを考えると、日本には当時最強の軍隊があったと主張したい。日本が敗退した原因は兵站の問題(朝鮮の英雄・李舜臣が海路を破壊したことで、日本の兵士への補給はほぼ不可能となった。日本は食料と薬品を必要な速さで輸送できなかったため、多くの日本人は戦闘ではなく飢えと病気で死んだ)、そして豊臣秀吉が1598年に急死し豊臣氏と徳川氏の間で後継争いが生じ、徳川氏が勝利を収めたことだった。

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■回答者3(韓国)
歴史上、朝鮮は東アジア諸国の中で最も小さい国だった。日本は、少なくとも朝鮮の三国時代の終わる紀元700年頃には、朝鮮より大きくかつ強くなっていた。以下を参照。

朝鮮の三王国 - Wikipedia(英語)

しかし様々な理由から、朝鮮は中国との間に持ったような関係を日本との間には一度も持たなかった。朝鮮は中国(とりわけ明)を偉大な文明と見なし、中国の社会を手本にして真似た。日本、満州、モンゴル等の他の国に対しては、これと同様の敬意を抱くことはほぼなかった。



翻訳元:Quora



高句麗がどこの国の歴史かという問題はありますけどね。



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