海外Q&Aサイトの「日本語は非論理的な言語なの?」という質問から、回答をご紹介。


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■回答者(アメリカ)
ここは正直になる必要がある。日本語は、絶対に非論理的だと思う。

理由:中国語の文字を使うのは、まったく理にかなっていない。

およそ1500年前、中国からの使節団が船で日本の地に到着した。この時、日本には文字がなかった ― 一切なかった。話し言葉だけの言語だった。これが非論理性の端緒だ。

日本人は中国語の文字もその意味も分からなかったが、文字はクールだと思ってその発音を覚え、その後、日本語を紙に書くのに中国語の文字を音声的に使って書き始めた。日本語は思考や文章が終わるまで単語の区切りなしに続く2音節の音の噴出で、一連の文字の流れでこれを記号化した(※万葉仮名のこと)。

しかし中国語は非常に論理的かつ方法論的な言語で、ほとんどの文字に音と意味の両方があるから、このやり方は論理的には意味のないものだった。理由は、日本人は中国語の文字のうちどの部分が音を表しどの部分が意味を表すか理解していなかったので、それがどういうことかも分からずに両方を書き続けたんだ。

やがて日本人は、日本語の音を表すのに中国語の文字を略さずに完全に書くのは大変すぎると決めた。そこで、中国語の文字の音声的な要素をなくして意味的な要素をその単語に対応する日本語の土着の発音と組み合わせて使う代わりに、中国語の完全な文字の字画を「簡易化」することに決めた ― これまた、文字の真の意味は知らずに。こうして仮名が作られた。ひらがなもカタカナもこのようにして出来た。

言うまでもなく、問題はこれらの簡易化された新しい文字が日本にとって初の土着の書紀体系(writing system)になったことだ。しかしこれらの文字は、中国語の文字に対する無知な理解に立脚していた ― 文字の音声的な発音だけを考慮するという無知な理解に! そのため仮名は、意味を一切持たず完全に音声だけを表す文字になった。

これは中国語の文字を間違って使うよりはずっとマシだが、しかし原理的には同じことだ。日本人は、単純に中国語の文字の意味的な部分を隣同士に並べたものでそれらが組み合わされた意味を表すようにして、そこに日本語の発音を付けたほうが良かったと思う。実のところ、日本語がもっと中国語に似ていたなら、その方が理にかなっていただろう。

しかし実際には似ていなかった。日本語の語順は中国語とは違うし、またほぼ間違いなく、日本語には単語というものすらなく、特定の順序に並べるとメッセージが現れる一連の音といったものに近い。事実、これは日本語学者がよく指摘していることだが、2音節の音(常に1つの子音に1つの母音が続く)を1つの「単語」と考えることができる。すべての単音に意味があるわけではなく、このカテゴリーに入るのは「助詞」だけだ。名詞のようなものは2音節の子音+母音の音だ。日本語では、情報が複雑になると単純にそれだけ長い一連の音ができる。長くなるほど意味も増える。

あらゆる日本語の単語は、音声的には仮名だけで書くことができるだろう。このことは日本語の真の本質を表している。まず耳で聞くもので、それに音声的な書紀体系が後付けで伴っているのだ。

ところが日本人は仮名では満足しなかった! 仮名は中国語の文字の「クール」な見た目、あるいは一部の歴史学者が書いているように「威信」を失ってしまった。そこで現代の日本は中国語の文字を取り戻すことにした。これには「漢字」という名前が与えられた ― 直訳すると「中国の文字」。

今やオリジナルの、完全な中国語の文字が再登場したわけだ。仮名がまだ残っているという点を除いて! 仮名はそれ自体、まさにその中国語の文字に基づいているというのに! これが日本語の第二の凋落だ。同じことの繰り返しだ。

彼らは、今度は漢字と仮名を混ぜる方法を考え出して、それでもなお何がしか理にかなった書紀体系を作る必要があった。そこで元の中国語の文字の意味を理解して、次にその文字を、その単語の日本土着語での発音と一対になった意味で使い、振り仮名といって漢字の上か横にその単語の意味を発音するための仮名を書き添え、さらに動詞と形容詞の活用を表し、名詞句・文・述語を形成し、繋辞と副詞を追加し、等々のために仮名と混ぜた。

しかし彼らは、音声および意味の両面で中国語の文字の真の意味を学んだ後も、論理的にやろうとするなら中国語の文字から音声的な部分をはぎ取って、意味的な部分だけを日本土着語の発音を付けて書くことを始めるべきだったのに、以前と同じように、同じ文字を書き続けた。これが今日の現代日本語で、「常用漢字」という「公的に使用される」日本語の文字の一覧を日本政府がメンテナンスしている。

日本語は基本的に、その書記体系とは一切何の関係もない。もし日本語を本当に理解したいと思ったら、実際の日本語は過去も今も常にまず耳で聞く言語で、書紀体系はそこに到達するための代理の手段に過ぎないということを理解する必要がある。このため大学で日本語を勉強すると、理解度を測る重要な試験はすべて耳で聞いて話す試験になっている。ある単語にある音を用い別の音を用いないことには、何の理由もないように見える。

こうした試験が重点を置いているのはリスニングと理解、そして語彙の正しい音を思い出す能力、頭の中で急いで動詞を活用させる能力、そして文法的に正しい文を作るために正しい順序でそれを正しく発音する能力だ。日本語の授業での学習プロセスは、辞書と文字を援用してゆっくりと文を作ることには役に立たない。学習プロセスは書紀体系の導きなしで音を記憶できるかどうかに尽きていて、それができなければ元も子もないかのようになっている。

実際には、ほぼ正反対だ。日本語では、大抵の言語とは逆に、一連の音の正しい並びを記憶することが書紀体系を学ぶ導きになる。日本語で重要なのは話せるかどうかで、その代理手段を理解しているかどうかではないのだ。

これは日本語に非常に深く刻まれているため、日本人は「外国語」を自分たちが話すのに使う子音+母音の語句に一致する発音に文字通り翻訳してしまう。これがカタカナの重要な機能だ。例えば私の名前「Robert Wilson」は、英語を語源とする英語の名前だ。ところが日本に行ったら、自分の名前を「ルソーヌ・ロバート」(※原文ママ)に翻訳する必要があるだろう。直訳すると:Lusoonu, Robaato。日本人は外国語をわざと台無しにするからだ。

したがって、日本語の書紀体系は基本的に、ほぼ、あるいはまったく理にかなってないのだが、これはその書紀体系が日本語への代理手段であるためだ。しかし書紀体系に頼らない言語に実際何の意味があるんだ? ¯\_(ツ)_/¯

少なくとも、学生向けではないことは確かだ。

役に立つか分からないが言っておくと、日本語の文語(※英語、Googleブックスのハルオ・シラネ『文語日本語文法』)は現代日本語より少しはマシだと思うが、究極的には同じ欠陥がある。

究極的には、中国語のほうが論理的な言語だと思う。中国語を学ぶにはこの教科書(※英語、『新実用中国語読本』のPDF)をチェックしてくれ。

しかし、もっと良いのは台湾で話され書かれている伝統的な中国語だ。中華人民共和国の中国語の簡易化された文字は、中国人に古い文書を読めなくすることで中国の歴史を消去しようという試みだ。またそれによって中国語を日本語に似たものにし、「簡易化」を通じて同じ論理的愚かしさをもたらすものだ。私が思うにアジアの言語の「簡易化」とは、言語の持つありとあらゆる論理的要素を剥ぎ取って、意味を持つ段階を時系列の丸暗記に置き換えることに他ならない。

日本、中国、韓国に共通するこの傾向の結果として、東アジアの人々は解剖学的に言って暗記に上達し論理的推論は下手になっているのではないかと思う。この傾向に気づいて、自分たちの言語の「簡易化」と歴史的な文書と文化の消去に対し「ノー」と言っている台湾には敬服する。



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↑コメント1(イギリス)
この回答は、単純化しすぎ、ざっくりしすぎというところが多々あるが、それよりもひどい問題は、文字の音声的価値だけを考慮に入れるのがなぜ「馬鹿げている」のかが明確になっていないことだ。


↑回答者
理にかなっていないからだよ。音声が必要なら、文字の全体ではなく音声的な要素だけを使えばいい。

このせいで、日本語の書き方は非常にその場しのぎで、でたらめな見た目になっている。対照的に、中国語は完璧に理にかなっている。単語は期待どおりに綴られる。文字の意味を知っていれば、どんな文字の並びでも見ただけで意味が推測できる。

もし日本人が中国語の文字を意味的に使っていなかったなら、問題はなかっただろう。ところが日本人はそれをやった。例えば、漢字の「今」または仮名の「いま」は、’now’という意味だ。「今」は’now’を表す中国語の文字、「いま」はその発音を表す音声的な仮名だ。

例えば:

「い」は「以」という文字に由来する。「今」とはまったく無関係の独自の意味を持つ文字だ。ところが、’now’を表す日本語はi+maの音で構成されるので、「今」は「いま」と発音し綴る。文語だと、意味を知らずに「以」の文字を使って’ima’を綴っただろう。しかし今の現代日本語では、同じ「以」の字を「出発点」や「使用」の意味で使う。

理にかなっていない。


↑コメント2
実際すごく理にかなっていると思うよ。日本語は音の種類が少ないが単語の数は多い。言語において音声は本当に重要だ。中国語の文字は、まず観念を、次に音を表す。読める人なら誰でも意味が分かる。しかし、文字が一つの観念全体を表しているので、地域が違うと音が違うということが起こりやすい。音を決定する文字の数が少ない場合、話されるメッセージは距離が離れていてもそう大きく変わらない。

これは船乗りにとっては重要だ。なぜなら、島は容易に独自の方言を生み出し(一般に孤立しているため)、にもかかわらず生きるために時には交易をする必要があるからだ。「アルファベット」(※表音文字一般)のある言語を見てみると、その大部分は非常に孤立した地域同士の間を接続しようとする文化に源を発している。日本はその一例だ。しかしアルファベットの難点は、音の数が限られているとわずかな音で多くの単語を作らなければならないという点にある。すなわち長い単語と、長い単語を結びつけて文を作る短い単語だ。日本語では同じ音を持つ単語がたくさんあるが、漢字がこの困難を軽減する役に立っている。


↑回答者
良い意見だ。そういう視点は今まで知らなかったし、あの島の人々にとっての必要性を考えれば確かに理にかなっている。

でも私はやはり中国語とその書紀体系のほうが好きだ。中国語は世界で最も、英語よりも論理的な言語の一つかもしれないと思う。


↑コメント2
大抵の言語は英語よりは論理的だと思う・・・


↑回答者
¯\_(ツ)_/¯


↑コメント3(ノルウェー)
するとルーン文字もあなたは面白くないのね。ルーン文字だと、文字には意味と音があって、両方または一方を表すことができる。そのためDに相当するルーン文字は、ダグ(Dagr  ※→Wikipedia)という神を表すか、あるいはたまたまDを含んでいる単語の中のただの文字ということになる。



翻訳元:Quora



コメント欄で反論しようと思ったんですが、ツッコミどころが多すぎて挫折しました。



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