海外Q&Aサイトの「なぜ日本は中国や韓国の文化をコピーしたのにそれを絶対に認めないの?」という質問から、回答をご紹介。


476577cd3ea6788d4628464e30b319d1_s (320x214)

■回答者1
うーむ。他国の面白い文化を借りて、それを革新して日本の文化に合うように作り変えるというのは、日本がいつもやってきたことだ。禅(Zen)ももともとは中国から渡来したもので、中国ではChanと言っていたと思う。重要なのは、それが中国ではすっかり廃れたが日本では洗練されていったということだ。それでもまだ中国のものだとは言えないだろう。文字もそうだ。漢字は中国から来たが、日本人は日本語に合うようにひらがなとカタカナを追加した。仏教は、朝鮮の王国の1つから渡来して奈良の建設に大きな助けとなったが、時間とともに日本バージョンへと発展して行った。資本主義も、日本バージョンには西洋にはない明確に日本的な特徴がある(そして今では韓国と中国がコピーしている!)

関連記事:
外国人「なぜ中国は日本人に文字を教えたのだろう?」

借りるだけなら誰だってやる。重要なのはその後どうするかだ。1960年代にイギリス人はアメリカのブルースやR&Bを取り上げて変化させ、別物にしてアメリカに送り返した。

コピーとモデル化の違いを理解した方がいい。コピーは深い理解なしにそのまま物まねすることだ。日本人が得意とするのは、調査し、要素に分解し、本質的でないものは拒否し、本質を保ちながら革新し改善することだ。NLPの提唱者リチャード・バンドラーは、日本人は世界でも有数のモデラーだと言っている。彼らがやるのは、君の質問で言う「コピー」とか「認めない」とかいった言葉よりも、遥かに緻密で効果的なことだ。

参考:
「神経言語プログラミング(しんけいげんごプログラミング、神経言語学的プログラミングとも, Neuro-Linguistic Programming: NLP)は、ジョン・グリンダー(言語学者)とリチャード・バンドラーによって提唱された、コミュニケーション、能力開発、心理療法の技法である。」
神経言語プログラミング - Wikipedia


■回答者2(中国)
すごく偏った質問ね。日本の文化が中国(主に唐)の強い影響を受けたというのは、日本でも中国でも広く受け入れられた知識。誰も否定しない。でもこのプロセスを「コピー」を呼ぶのは良い説明じゃないわ。ヤマトは中国に留学生を派遣し、唐は快く中国の文化を教えた。これを「コピー」と呼ぶなら、イギリスの文化はローマやギリシャやフランスのコピーだと言ったほうが正しいということになりそうね。

でもまだこの質問は変な感じがする。聞くにしても「なぜ日本と韓国は中国の文化をコピーしたのにそれを決して認めないの?」でしょう。日本と朝鮮は、神話時代から文明化して国を形成する過程で、どちらも中国の強い影響を受けた。日本は確かに朝鮮の国々から文化を輸入したけど、基本的に中国文化のとか乗り換え地点として利用したの。朝鮮固有の文化が中国や日本に対してインパクトを与えた例は見当たらない。(仏教や儒教や道教や神道が、朝鮮のものだとか言わないでよ)

一番重要な国は百済。「百済は海洋国家となり、古墳時代の日本の支配層と相互的な親善関係を続け、大陸の文化の影響を日本に伝えた。この関係を通じて中国の文字、仏教、先進的な陶器、葬送儀礼その他の文化が、貴族、職人、学者、僧侶によって導入された」(「百済 - Wikipedia」(英語)

仏教の伝播(公的に記録された)に着目するなら、高句麗は372年に中国の北朝から仏教を受け入れた。百済は384年に南朝から。新羅は411年に百済の僧侶から、公式には528年。そして日本が百済から公式に仏教を導入したのが552年、それ以前にも何人かの中国の僧侶は日本に旅していた。(「日本の仏教 - Wikipedia」(英語)「南北朝 - Wikipedia」(英語)

南北朝の後、隋と唐の時代(6~9世紀)に百済が滅亡すると、日本は唐から直接文化を受容するようになった。この時代はヤマト政権が日本という国に移行する時期に当たる。

最後に、『般若心経』はサンスクリットから意訳された中世(唐の時代)の呉語から音訳されたもの。



■回答者3(中国)
過去には日本は中国を世界最大の大国と見ていて、中国の王朝に貢物をして、日本の皇室は中国の色の文化を取り入れた。これは2,000年以上前にまで遡ることができる。当時中国の滅亡した王家の人間は、告発を恐れて遠くの島に亡命することがよくあった。従ってこうした支配層にとって故国は中国大陸にあったが、しかし中国は常に変化と文化の転変と混沌に晒されていて、これが現代中国の文化と伝統の発達に繋がった。当時の日本はさまざまな部族から成る東の孤島といったところだった。「息子の子供たち」(?)、つまり日本の島々に着いた中国人が大陸の文化と伝統を導入するようになって初めて、彼らは徐々に日本に植民し部族を形成し、やがて最終的には国家になった。

参考:
「天皇の衣を黄櫨染とした背景には、唐の文化の受容があったと考えられている(弘仁・貞観文化)。中国では隋以降、戎服(日本の朝服に相当する常服)では黄色が尊い色とされ、唐の時代になって、赭黄袍が皇帝専用のものとなった(『新唐書』ほか)[4]。」
黄櫨染御袍 - Wikipedia

近代になって、19世紀までは日本は常に中国を最大の国と考えていた。その理由は豊かな文化的伝統であり、また長い時の中で多くの中国人と朝鮮人が日本に移民し文化をもたらしたことだった。その文化は容易に日本に同化した。

ヨーロッパ人の到来、そして清朝の衰退以降、日本は中国が結局それほどの大国ではないと考え始め、西洋の技術、聖書、火器、飛行機や軍艦を取り入れ、西洋と協力することで実際に中国を打ち負かせると考えた(もっともこれには同時に多くの国内事情が寄与していた。中国の軍閥の将や王家の人間が告発を恐れて日本に多数亡命しており、彼らは家族を告発した大陸の勢力に対する憎悪を煽った。そしてこれが大陸の現在の勢力を辱めるという復讐に繋がった)。こうした遺恨があったため、故国から追い出されその外で生きざるを得なくなった大陸の子孫たちは、朝鮮でも日本でも中国人から分離するようになった。もし君が誰かに力ずくで家を退去させられて、そいつらが家に住み始めたとしら、同じ気持ちを味わうだろう。そしていつの日か自分の方が強くなったら、戻って家を取り戻そうと誓うだろう――そいつらが本当の家の持ち主だなんて認めないだろ?

たとえ日本人が決して認めないとしても、彼らは無意識的に、中国大陸から来た先祖たちの副産物のように振る舞ってきた。そして自分たちの先祖はもともと大陸を支配していた純粋な民族だと思っているのかも知れない。



翻訳元:Quora



コピーして改善は日本のお家芸ですね。




なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか 「脱中華」の日本思想史 (PHP新書)