海外Q&Aサイトの「外国人が日本でやると日本人を苛立たせることと言えば?」という質問から、回答をご紹介。


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■回答者
自分の経験では、日本人を確実に苛立たせる(そして友達をなくすことさえある)ことは、彼らの文化の動機を深く探りすぎることだ。日本では好奇心は報われる性格ではない ― 確かに君が寿司や納豆を食べ、箸を使い、日本語を話してホンダやトヨタを賞賛し、否定しようのない犯罪率の低さに魅了されたりするのは良い。ところが君が日本の目立った欠点について大量の質問を始めると(高い自殺率、ストレス、抑圧、過労、経済の停滞、アルコール中毒、精神疾患、出生率の低下、レイシズム等)、彼らは急に守りの姿勢に入る。これは意図して偏向しているわけではなく、彼らの内部を深く探ることが不安を呼び起こすんだと思う。日本人の多くは、自分たちの社会が何かひどく間違ってしまったということに無意識的には気づいているのだと思うが、しかしそれについて話したがらない。不快だし、 ― それに集団主義は(まさにその性質上)集団を批判することを禁じるものだからだ。

それはそれとして、日本は集団主義の社会であり、西洋はおおむね個人主義的だ。政治はさておき、社会を組織するためのこの2つの戦略は、個人の思考と行動に根本的な影響を及ぼす。同意しない人は今すぐ読むのをやめてくれ ― この客観的事実を受け入れる人は、続きを読むことをお勧めする。

前述した理由に加えて、大抵の日本人は社会の問題について考えようにも、単に怠惰だったり、ストレス疲れしていたり、気が散っていたり、あるいは普通に忙しすぎて出来ないんだと思う ― 実際「それは面倒くさい」という台詞を実に頻繁に耳にした。日本の教育制度は、自分とそれを取り巻く世界を理解しようとする人間を生み出さず、代わりに人は何としてでも適合し揉め事を起こさないように教え込まれる。西洋優越主義者みたいに聞いてほしくないんだけど、僕らは色々欠点はあるにしても、少なくともあらゆることを問い、何としてでも個人であることを教え込まれる(教え込まれた、と言うべきか?) ― 僕らの血管には「汝自身を知れ」というソクラテスの原則が流れているらしい ― たとえこれが、僕の世代で死に絶える美徳なのだとしても。確かに僕らは、(大抵の)ミレニアル世代が活気のないニヒリストになるという問題を抱えている。そして僕はこれに対しては何度も声を上げている ― とは言え、この件は別の機会に話そう。

要点は、日本を(そして西洋を)理解することは集団主義と個人主義の違いを理解することに帰着する、ということだ。彼らの集団主義的なものの考え方が、行動をコントロールし、思考を導き、反応をあらかじめ決定するのだ。公平のために言うと、彼らはよくタテマエとホンネ(集団の考えと自分の考え)の内心での葛藤を示すが、これについては、協調こそが美徳だと教えられているので大抵の場合はタテマエが勝つことになる、とだけ言っておこう。


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和平提案:個人であることは確かに大変だが、僕はそのよって来る所以を忘れてはいない。精神の掃除は大変な仕事だが、しかし「自分の部屋を片付けろ」と「汝自身を知れ」には限りない利益があり、世界をよりはっきりと理解する能力を備えた考え深い人間になる助けになる。理解することは、(僕にとっては)精神の平和に等しい。

前のポイントに戻ると、百歩譲って僕らが皆、自分の生まれた文化によって大なり小なり洗脳されていることは認めよう。しかしこの警告はさておき、実際に日本人の頭の中に入り込んでみるまでは、彼らがどれほど囚われているかは想像もできないだろう。

―自らの社会の中の思考の囚人―

西洋人(自分たちの政府といつも戦っているように見える)にとっては全く奇妙に見えることだが、日本政府は実際この掃き溜めの中の鶴に見える。政府は、時間外労働を制限し残業代の支払いを義務化し、うつ病や疲弊した労働者に治療を与え、子供を持つための税金控除や職場内でのいじめから人を保護する法律を制定し・・・等々によって社会問題と戦おうと奇跡的にも努めているようだ。日本の問題は専制によって生まれるのではなく、社会それ自体の中から生まれてくるように見える。

日本政府を全力で賞賛し始める前にやめておこう、僕は実際のところ自由市場主義者だから。一般に、すべての政府は可能な限り個人の事情には踏み込まないでほしいと思っている。しかし、こと日本人 ― 自分で自分の首吊りの縄を締めているように見える ― の場合、無制限の手厚い指導が必須のようだ。

日本式の集団思考は1日の終わりに1つ役に立つことがある。集団の生存を維持するのだ。しかしこれは個人を圧殺し、問題を認識して創造的な解決策を発見する(既存の枠組みに囚われない発想をする)ことを下手にする。このため、僕らのように個人主義の文化に育った者は日本人と付き合うのにしばしば苛立ちを覚える。特にビジネスという、最低ラインが効率・創造的思考・問題解決(この3つは日本人が不得手とすることだと思う)に依存する領域ではそうだ。

日本に住んで最初の5年間、僕は彼らのものの考え方に頭からぶつかり続けた。僕は会う大人を誰でも・・・まあ言わば、大人のように扱った。つまり大人の思考を持ち、エビデンスに基づいて論理的な結論に到達する能力がある人間ということだ。これは大間違いだった ― 僕は彼らが合理的に行動することを期待して、ハードルを上げてしまっていたんだ。僕は日本の社会が論理的で、意味があり、現実に合致し、あるいは少なくとも何らかの客観的な基準にかなうものであってほしいと思っていた。ところが僕が幾度となく発見したのは、日本人にとっての「真実」は状況によって動くものだということだ。真実、それは団結力や調和や合意に比べればどうでもいいものなのだ。



翻訳元:Quora



読むだけでめんどくさい人だということが伝わってくる。



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