海外Q&Aサイトの「君の国で日本文化の影響っていうと何だった?」という質問から、回答をご紹介。


■回答者(ロシア)
マトリョーシカ人形、漆塗りの箱、ロシアのショールは、19世紀半ばに日本からヨーロッパ経由でロシアに入ってきた。

ロシアでは1861年の農奴解放によって経済発展が一気に加速した。多くの小作農が商人になり、銀行のローンを使い、ほとんど無尽蔵の解放された労働力を利用して中央ロシアで小規模な製造業を始めた。数人の起業家が、1850年代~60年代のパリを捕らえた日本熱の流れを掴んで、ジャポニズム風の小物を作り始めた。当時の小作農は町に旅行に行くと、ちょうど今のトブラローネ(※免税店の定番チョコ)や香水のように、こうした小物を家に買って帰った。

ロシアにはそれ以前から木工の伝統があった。しかし、世界的に有名な空気力学的形状をした塗りのマトリョーシカ人形が今の形をとるようになったのは1860年代だ。

同じことがパヴロフスキー・ポサドのショールについても言える。1860年代以前には、ペルシャ風の抽象的な花模様と「トルコのきゅうり」で色鮮やかに飾られた毛織りのショールが主な専門だった。ジャポニズムによってリアリスティックな花のモチーフが持ち込まれ、デザインを織る代わりに印刷し、色調も落ち着いたものになり、絹と綿が使われるようになった。

参考:
「パヴロフスキー・ポサド(パーヴロフスキー・パサード、ロシア語: Па́вловский Поса́д, 英語: Pavlovsky Posad)はロシア・モスクワ州の都市で、首都モスクワからは西へ68km。」
「当初からパヴロフスキー・ポサドは繊維産業の町として栄え、とりわけショールの生産で有名であった。」
パヴロフスキー・ポサド - Wikipedia

紙で作った塗りの箱は、ジャポニズムの数十年前にフェドスキノで作られていた。しかしまず紙にモチーフを描いて、それから箱に貼るのが普通だった。1860年代以降、箱に直接描き、また明るい色の下に暗い色を重ねるという日本の技術を取り入れた。この技術はソビエト時代にパレフで再現されることとなった。

参考:
「パレフ(ロシア語: Пáлех, 英語: Palekh)はロシア・イヴァノヴォ州にある都市型集落(町)でパレフスコゴ地区の行政中心地。州都イヴァノヴォと東のニジニ・ノヴゴロドを結ぶ街道の途中にある。イヴァノヴォ州第3の街シューヤからは東へ30km。人口は5,814人(2002年国勢調査)。」
「主な産業は細密画制作やイコン制作などの美術工芸である。また工芸学校があり、パレフ美術館など複数の美術館のほか、パレフで活躍した芸術家を記念する個人美術館も多い。芸術家の工房や周囲の聖堂群も見どころになっている。」
パレフ - Wikipedia

(アール・ヌーヴォー/ユーゲントシュティールも、ある程度まで日本の影響と見なすことができる。ただロシアに入ってくる前にヨーロッパ人が大きく変形していたが。)

下の写真は、モスクワで開催される2018年サッカーワールドカップに向けたマトリョーシカ人形のラインナップ。メーカーは、右の人形がくわえているのはサッカーのホイッスルだと言い張っている。

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翻訳元:Quora



箱根細工が元になったという説はあるみたいです。(→マトリョーシカ人形 - Wikipedia




マトリョーシカ大図鑑



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