海外Q&Aサイトの「聖書は天地創造からその終わりまで全てを述べているのに、なぜ恐竜には言及していないの?」という質問から、回答をご紹介。
■回答者1
言及している。ただし恐竜(dinosaur)は英語。
『クリスチャン新報』の記事「恐竜と聖書」(英語)によると:
----- 引用ここから -----
『ヨブ記』には恐竜への言及があるようだ。ヨブはその大きな受難により、ヤハウェのわざを非難した。そこで主は彼を厳しく問いただしながら、自然から引いた一連の例によって、自分の力と知恵を(またそれと対照してヨブの痛ましい無知を)説明した(『ヨブ記』38-41)。これに関連して、40章では「ビヒモス」として知られる生き物が言及されている。
ヘブライ語の原語は「獣」一般を指すのにも使われることがあるが(cf. 『申命記』28:26)、『ヨブ記』40章では明らかに特定の動物を指している。名詞は複数形だが、動詞と代名詞が単数形であることと併せて考えると、これは単数の偉大な獣を念頭に置いている(※ヘブライ語等では単数の名詞を複数形にすることで偉大さや卓越性を表すという用法があります)。翻訳者たちはこれがどんな生き物か分からないためこの単語を翻訳せずに残しており、そのため英語化された形の“behemoth”が今の一般的な翻訳にも現れている。
大半の学者は、それ以上に良い理論もないためこの動物を河馬に比定してきた(cf. ASV(アメリカ標準訳聖書)脚注)。しかし文脈を注意深く分析することで、主によるビヒモスの描写に河馬が当てはまらないことが明らかになるだろう。以下の要因を考慮せよ:
河馬は重さは4トンほどだが、恐竜は30トンのものもあった! ビヒモスはどんな人間も捕獲できないほど力が強い(24節)。エジプトの記念碑ではしばしば河馬を片手で攻撃している戦士たちが描かれているので、この描写を河馬に当てはめることはほぼできない。山全体の草木がこのビヒモスの食料に当てられると言われているが、河馬が1日に食べる草類はわずか200ポンド(※約91kg)であり、また河馬は水辺に留まっている。
今日地上にいるいかなる生き物も、『ヨブ記』40章のビヒモスの詳細な描写には当てはまらないとほぼ結論せざるを得ない。
----- 引用ここまで -----
恐竜に関する聖書の理論:
■回答者2
質問からすると、君は若い地球説の観点からアプローチしているようだ。その場合、多くの人は『ヨブ記』(聖書の中でも最も初期に書かれた書)に2種類の恐竜が言及されていると言っている。
15 河馬を見よ、これはあなたと同様にわたしが造ったもので、牛のように草を食う。
16 見よ、その力は腰にあり、その勢いは腹の筋にある。
17 これはその尾を香柏のように動かし、そのももの筋は互にからみ合う。
18 その骨は青銅の管のようで、その肋骨は鉄の棒のようだ。
19 これは神のわざの第一のものであって、これを造った者がこれにつるぎを授けた。
もう一つは「リヴァイアサン」だ(『ヨブ記』41章):
1 あなたはつり針でわにをつり出すことができるか。糸でその舌を押えることができるか。
2 あなたは葦のなわをその鼻に通すことができるか。つり針でそのあごを突き通すことができるか。
3 これはしきりに、あなたに願い求めるであろうか。柔らかな言葉をあなたに語るであろうか。
4 これはあなたと契約を結ぶであろうか。あなたはこれを取って、ながくあなたのしもべとすることができるであろうか。
5 あなたは鳥と戯れるようにこれと戯れ、またあなたのおとめたちのために、これをつないでおくことができるであろうか。
6 商人の仲間はこれを商品として、小売商人の間に分けるであろうか。
7 あなたは、もりでその皮を満たし、やすでその頭を突き通すことができるか。
8 あなたの手をこれの上に置け、あなたは戦いを思い出して、再びこれをしないであろう。
9 見よ、その望みはむなしくなり、これを見てすら倒れる。
10 あえてこれを激する勇気のある者はひとりもない。それで、だれがわたしの前に立つことができるか。
11 だれが先にわたしに与えたので、わたしはこれに報いるのか。天が下にあるものは、ことごとくわたしのものだ。
12 わたしはこれが全身と、その著しい力と、その美しい構造について黙っていることはできない。
13 だれがその上着をはぐことができるか。だれがその二重のよろいの間にはいることができるか。
14 だれがその顔の戸を開くことができるか。そのまわりの歯は恐ろしい。
15 その背は盾の列でできていて、その堅く閉じたさまは密封したように、
16 相互に密接して、風もその間に、はいることができず、
17 互に相連なり、固く着いて離すことができない。
18 これが、くしゃみすれば光を発し、その目はあけぼののまぶたに似ている。
19 その口からは、たいまつが燃えいで、火花をいだす。
20 その鼻の穴からは煙が出てきて、さながら煮え立つなべの水煙のごとく、燃える葦の煙のようだ。
21 その息は炭火をおこし、その口からは炎が出る。
22 その首には力が宿っていて、恐ろしさが、その前に踊っている。
23 その肉片は密接に相連なり、固く身に着いて動かすことができない。
24 その心臓は石のように堅く、うすの下石のように堅い。
25 その身を起すときは勇士も恐れ、その衝撃によってあわて惑う。
26 つるぎがこれを撃っても、きかない、やりも、矢も、もりも用をなさない。
27 これは鉄を見ること、わらのように、青銅を見ること朽ち木のようである。
28 弓矢もこれを逃がすことができない。石投げの石もこれには、わらくずとなる。
29 こん棒もわらくずのようにみなされ、投げやりの響きを、これはあざ笑う。
30 その下腹は鋭いかわらのかけらのようで、麦こき板のようにその身を泥の上に伸ばす。
31 これは淵をかなえのように沸きかえらせ、海を香油のなべのようにする。
32 これは自分のあとに光る道を残し、淵をしらがのように思わせる。
33 地の上にはこれと並ぶものなく、これは恐れのない者に造られた。
■回答者3(アメリカ)
言及している可能性はある。聖書には多くの生き物が言及されていて、例えば欽定訳聖書の以下の節だ:
「いたち、カメレオン、とかげ、かたつむり、もぐら。」(『レビ記』11:30)
改訂標準訳聖書(RSV)の同じ節を見てみよう:
「やもり、陸ワニ、とかげ、すなとかげ、カメレオン。」(『レビ記』11:30)
2種類の翻訳で同じヘブライ語を異なって訳していることに注意してほしい。これは、聖書に言及される生き物の大半について、実はどんな生き物なのか分かっていないためだ。翻訳者にできるのは知識に基づき推測することだけだ。
他にもいくつかの、非常に大きくて力が強いと思われる生き物が言及されている。
※以下、『ヨブ記』40:1–18と41:19-30の欽定訳聖書からの引用。上の回答と重複するため省略。
■回答者4(アメリカ)
伝記作家は物語を選び、焦点を絞る
アインシュタイン、エジソン、スティーブ・ジョブズ、その他偉大な発明家の伝記作家は、彼らの人生に起こったが読者には関係のない、あるいは興味のない何百万という出来事に言及しない。しかし・・・作家と編集者は、何を入れて何を除くかの判断をしている。
この場合の作家は、非常に具体的な核となる目標を持っていた・・・それは、地と海と空のあらゆる生き物の目録となることではない。究極的には、恐竜はイエスの物語全体の中に適合しないものだったのだ。
だから究極的には、作家は常に様々な物語のパーツを入れるか除くかの選択をしている。『創世記』の著者が、より広く言えば神が、なぜ恐竜を除いたのか・・・私には分からないし・・・君にも分からない・・・推測し、主張し、推論することしかできない・・・これが分かる唯一の希望は、神に面と向かって尋ねられるようになることだ。
はっきりさせておこう:
聖書は『ヨブ記』40:15-24と『創世記』6:4で恐竜に言及している。これはこの質問と、それを好むような人に隠された仮定があることを指摘するものだ。NIV(新国際版聖書)『ヨハネによる福音書』21.25 - Bible Gateway(英語)。(聖書は全20何巻の『エンサイクロペディア・ブリタニカ』ではない。両者は目的を異にする。)
聖書の物語の文脈では、以下を理解することが重要だ:
追記:
「野の獣」への聖書の言及は、恐らく恐竜を指すか、潜在的に恐竜を含むものだろうと思う。
ここでの神の目的を理解することが大事だと思う。160語程度に込められた神の目的は、自然についての百科全書的な記述ではなく、生命の起源とその歴史上の展開を手短に、記憶できる形で、さらには詩的に説明することにある。
これは『創世記』の特に1章の意味と目的、そして究極的には解釈を、文脈に沿って理解するのに役立つことだ。
翻訳元:Quora
創造論 vs 進化論スレとかほんと魔境です。
鳥類学者 無謀にも恐竜を語る (新潮文庫)
■回答者1
言及している。ただし恐竜(dinosaur)は英語。
『クリスチャン新報』の記事「恐竜と聖書」(英語)によると:
----- 引用ここから -----
『ヨブ記』には恐竜への言及があるようだ。ヨブはその大きな受難により、ヤハウェのわざを非難した。そこで主は彼を厳しく問いただしながら、自然から引いた一連の例によって、自分の力と知恵を(またそれと対照してヨブの痛ましい無知を)説明した(『ヨブ記』38-41)。これに関連して、40章では「ビヒモス」として知られる生き物が言及されている。
ヘブライ語の原語は「獣」一般を指すのにも使われることがあるが(cf. 『申命記』28:26)、『ヨブ記』40章では明らかに特定の動物を指している。名詞は複数形だが、動詞と代名詞が単数形であることと併せて考えると、これは単数の偉大な獣を念頭に置いている(※ヘブライ語等では単数の名詞を複数形にすることで偉大さや卓越性を表すという用法があります)。翻訳者たちはこれがどんな生き物か分からないためこの単語を翻訳せずに残しており、そのため英語化された形の“behemoth”が今の一般的な翻訳にも現れている。
大半の学者は、それ以上に良い理論もないためこの動物を河馬に比定してきた(cf. ASV(アメリカ標準訳聖書)脚注)。しかし文脈を注意深く分析することで、主によるビヒモスの描写に河馬が当てはまらないことが明らかになるだろう。以下の要因を考慮せよ:
- 学者の中には、ビヒモスが「水の牡牛」といった意味のエジプトの言葉"peheme"と関係すると考える者もいる。これが河馬を指すものでないことは、エジプト人が河馬を呼ぶのに別の単語を使っていたという事実から証拠立てられる。
- ヨブの語りの中で、ビヒモスは大きな筋肉をもった非常に強い草食動物として描かれている(15-16節)。そして杉の木のような尻尾を動かすという(17節)。この生き物を河馬に比定したフランシス・アンダーソン(※オーストラリアの聖書学者。『ヨブ記』の注釈書を書いている)でさえ、次のように認めている:「河馬の尻尾は小さく短いので、尻尾が杉の木に喩えられる理由は分かりにくい」(1976, 276)。ビヒモスの骨格はどっしりした青銅と鉄の骨組みである(18節)。神のわざ(生き物)の中で第一のもの(すなわち、大きさと力において第一のもの)と呼ばれており、事実、創造主自身すら剣を手にしなくては近づこうとしないほど巨大である(19節)。
河馬は重さは4トンほどだが、恐竜は30トンのものもあった! ビヒモスはどんな人間も捕獲できないほど力が強い(24節)。エジプトの記念碑ではしばしば河馬を片手で攻撃している戦士たちが描かれているので、この描写を河馬に当てはめることはほぼできない。山全体の草木がこのビヒモスの食料に当てられると言われているが、河馬が1日に食べる草類はわずか200ポンド(※約91kg)であり、また河馬は水辺に留まっている。
今日地上にいるいかなる生き物も、『ヨブ記』40章のビヒモスの詳細な描写には当てはまらないとほぼ結論せざるを得ない。
----- 引用ここまで -----
恐竜に関する聖書の理論:
■回答者2
質問からすると、君は若い地球説の観点からアプローチしているようだ。その場合、多くの人は『ヨブ記』(聖書の中でも最も初期に書かれた書)に2種類の恐竜が言及されていると言っている。
参考:
「若い地球説(わかいちきゅうせつ、英語: Young Earth creationism、略称:YEC)とは、創造論のうち、神による天と地とすべての生命の創造が短い間になされたとする説。現代科学の長い年代を否定し、紀元前数千年前から一万年前の間に、聖書の創世記にある通り、24時間の6日間で世界が創造されたとする。」
若い地球説 - Wikipedia
以下、聖書の引用はWikisourceの口語訳から。ちなみにビヒモスは「河馬」と訳されています。
15 河馬を見よ、これはあなたと同様にわたしが造ったもので、牛のように草を食う。
16 見よ、その力は腰にあり、その勢いは腹の筋にある。
17 これはその尾を香柏のように動かし、そのももの筋は互にからみ合う。
18 その骨は青銅の管のようで、その肋骨は鉄の棒のようだ。
19 これは神のわざの第一のものであって、これを造った者がこれにつるぎを授けた。
もう一つは「リヴァイアサン」だ(『ヨブ記』41章):
1 あなたはつり針でわにをつり出すことができるか。糸でその舌を押えることができるか。
2 あなたは葦のなわをその鼻に通すことができるか。つり針でそのあごを突き通すことができるか。
3 これはしきりに、あなたに願い求めるであろうか。柔らかな言葉をあなたに語るであろうか。
4 これはあなたと契約を結ぶであろうか。あなたはこれを取って、ながくあなたのしもべとすることができるであろうか。
5 あなたは鳥と戯れるようにこれと戯れ、またあなたのおとめたちのために、これをつないでおくことができるであろうか。
6 商人の仲間はこれを商品として、小売商人の間に分けるであろうか。
7 あなたは、もりでその皮を満たし、やすでその頭を突き通すことができるか。
8 あなたの手をこれの上に置け、あなたは戦いを思い出して、再びこれをしないであろう。
9 見よ、その望みはむなしくなり、これを見てすら倒れる。
10 あえてこれを激する勇気のある者はひとりもない。それで、だれがわたしの前に立つことができるか。
11 だれが先にわたしに与えたので、わたしはこれに報いるのか。天が下にあるものは、ことごとくわたしのものだ。
12 わたしはこれが全身と、その著しい力と、その美しい構造について黙っていることはできない。
13 だれがその上着をはぐことができるか。だれがその二重のよろいの間にはいることができるか。
14 だれがその顔の戸を開くことができるか。そのまわりの歯は恐ろしい。
15 その背は盾の列でできていて、その堅く閉じたさまは密封したように、
16 相互に密接して、風もその間に、はいることができず、
17 互に相連なり、固く着いて離すことができない。
18 これが、くしゃみすれば光を発し、その目はあけぼののまぶたに似ている。
19 その口からは、たいまつが燃えいで、火花をいだす。
20 その鼻の穴からは煙が出てきて、さながら煮え立つなべの水煙のごとく、燃える葦の煙のようだ。
21 その息は炭火をおこし、その口からは炎が出る。
22 その首には力が宿っていて、恐ろしさが、その前に踊っている。
23 その肉片は密接に相連なり、固く身に着いて動かすことができない。
24 その心臓は石のように堅く、うすの下石のように堅い。
25 その身を起すときは勇士も恐れ、その衝撃によってあわて惑う。
26 つるぎがこれを撃っても、きかない、やりも、矢も、もりも用をなさない。
27 これは鉄を見ること、わらのように、青銅を見ること朽ち木のようである。
28 弓矢もこれを逃がすことができない。石投げの石もこれには、わらくずとなる。
29 こん棒もわらくずのようにみなされ、投げやりの響きを、これはあざ笑う。
30 その下腹は鋭いかわらのかけらのようで、麦こき板のようにその身を泥の上に伸ばす。
31 これは淵をかなえのように沸きかえらせ、海を香油のなべのようにする。
32 これは自分のあとに光る道を残し、淵をしらがのように思わせる。
33 地の上にはこれと並ぶものなく、これは恐れのない者に造られた。
■回答者3(アメリカ)
言及している可能性はある。聖書には多くの生き物が言及されていて、例えば欽定訳聖書の以下の節だ:
「いたち、カメレオン、とかげ、かたつむり、もぐら。」(『レビ記』11:30)
改訂標準訳聖書(RSV)の同じ節を見てみよう:
「やもり、陸ワニ、とかげ、すなとかげ、カメレオン。」(『レビ記』11:30)
参考:口語訳では「やもり、大とかげ、とかげ、すなとかげ、カメレオン。」
2種類の翻訳で同じヘブライ語を異なって訳していることに注意してほしい。これは、聖書に言及される生き物の大半について、実はどんな生き物なのか分かっていないためだ。翻訳者にできるのは知識に基づき推測することだけだ。
他にもいくつかの、非常に大きくて力が強いと思われる生き物が言及されている。
※以下、『ヨブ記』40:1–18と41:19-30の欽定訳聖書からの引用。上の回答と重複するため省略。
■回答者4(アメリカ)
伝記作家は物語を選び、焦点を絞る
アインシュタイン、エジソン、スティーブ・ジョブズ、その他偉大な発明家の伝記作家は、彼らの人生に起こったが読者には関係のない、あるいは興味のない何百万という出来事に言及しない。しかし・・・作家と編集者は、何を入れて何を除くかの判断をしている。
この場合の作家は、非常に具体的な核となる目標を持っていた・・・それは、地と海と空のあらゆる生き物の目録となることではない。究極的には、恐竜はイエスの物語全体の中に適合しないものだったのだ。
だから究極的には、作家は常に様々な物語のパーツを入れるか除くかの選択をしている。『創世記』の著者が、より広く言えば神が、なぜ恐竜を除いたのか・・・私には分からないし・・・君にも分からない・・・推測し、主張し、推論することしかできない・・・これが分かる唯一の希望は、神に面と向かって尋ねられるようになることだ。
はっきりさせておこう:
聖書は『ヨブ記』40:15-24と『創世記』6:4で恐竜に言及している。これはこの質問と、それを好むような人に隠された仮定があることを指摘するものだ。NIV(新国際版聖書)『ヨハネによる福音書』21.25 - Bible Gateway(英語)。(聖書は全20何巻の『エンサイクロペディア・ブリタニカ』ではない。両者は目的を異にする。)
参考:
『創世記』6:4は以下の通り:
「そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。」
「ネフィリム(Nephilim)は、旧約聖書の『創世記』および『民数記』、旧約聖書外典(続編)の『ヨベル書』、『エノク書』などにあらわれる種族の名で、一般的には「巨人」とされる。名前の意味は「(天から)落ちてきた者達」であるという。「ネピリム」とも表記される。」
ネフィリム - Wikipedia
『ヨハネによる福音書』21.25は以下の通り:
「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。」
聖書の物語の文脈では、以下を理解することが重要だ:
- イスラエル人とモーゼ > 恐竜
- イエス > 恐竜
追記:
「野の獣」への聖書の言及は、恐らく恐竜を指すか、潜在的に恐竜を含むものだろうと思う。
ここでの神の目的を理解することが大事だと思う。160語程度に込められた神の目的は、自然についての百科全書的な記述ではなく、生命の起源とその歴史上の展開を手短に、記憶できる形で、さらには詩的に説明することにある。
これは『創世記』の特に1章の意味と目的、そして究極的には解釈を、文脈に沿って理解するのに役立つことだ。
翻訳元:Quora
創造論 vs 進化論スレとかほんと魔境です。
鳥類学者 無謀にも恐竜を語る (新潮文庫)
スポンサーリンク