海外Q&Aサイトの「村上春樹ってなんで日本では論争の的になっているの?」という質問から、回答をご紹介。


■回答者1(アメリカ)
平均的な日本人の読者に関する限り、村上について論争はない。しかし日本の文壇に足を踏み入れるなら、論争はまさにそこから起こっている。村上は西洋の文化から強い影響を受けていて、作品にはその要素が多く詰め込まれている。日本の文学者はこれが気に入らなくて、村上は西洋の影響のため「非日本的」だと言って非難してきたんだ。



■回答者2(イギリス)
回答者1に賛成。文壇では村上をめぐって論争がある。その多くは、私が思うに、文化的なアイデンティティに関係している。彼の物語は西洋の文化をほのめかしながら日本を描写することが多い ― 登場人物はよく、例えばブルーズやジャズを聴き、日本の音楽は昔のも今のも聴かないし、日本酒ではなくウィスキーを飲む、等。『ノルウェイの森』(※Norwegian Wood)というタイトルもビートルズの曲から取られている ― あるいは、ビートルズの曲の誤解から来ていると言うべきか? 曲のほうも本のほうも、日本語のタイトルでは“wood”を森のような一群の木々と解しているが、原曲の“wood”が意味しているのは部屋を飾る木材のことだ(当時は松の木が流行だった)。

参考:
「ポール・マッカートニーは次のように解説している。(・・・)ピーター・アッシャー[注 3]は部屋の内装をすっかり木造にしていたよ。多くの人が木材で部屋を飾り付けていたんだ。ノルウェー産の木材、松の木のことだよ。安物の松材さ。でも「安物の松材」じゃタイトルにならないだろ?」
ノルウェーの森 - Wikipedia

とにかく、村上はその作品の中で非常に西洋化されたバージョンの日本を描写するだけでなく、翻訳の仕事では、文壇の一部の人々が文化を動揺させるスタイルだと考えるものを採用している。日本では、村上はスコット・フィッツジェラルド、サリンジャー、トルーマン・カポーティ、レイモンド・カーヴァー、ジョン・アーヴィング、レイモンド・チャンドラー、アーシュラ・K・ル=グウィンといった作家の翻訳作品で有名だ。

彼の翻訳のスタイルは、読者に作品との距離を近く感じさせ、登場人物を「外国人」で「他者」として経験するのではなく、自分と重ね合わさせるものだ。例えばアメリカのスラングを文字通りに訳すと、日本語だと気取った人工的な感じに聞こえるが、そうはせずに、いかにも日本語らしくて「クール」な表現を探す。「純粋主義者」の中には、これを日本文化を堕落させる一種のトロイの木馬だと ― 言ってみれば、外国のいかがわしい言動と価値観を裏口からもぐり込ませるものと見る者もいる。

そして、言うまでもなく、彼は実際に海外に住んでいる! うさんくさいったらないだろ?

この種のことに関しては、私は普段なら参照先の情報を提示するのだが、今回は何もない。どこかにあるのかもしれないが、私は知らなくて、今回は全部伝聞だ。日本の知識人 ― 中でも特に保守的な知識人! ― と、年来話してきたことを繰り返しているにすぎない。

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■回答者3(アメリカ)
日本では、「論争の的になる」(controversial)という言葉は必ずしも否定的な意味を持ってはいない。新しくて洞察に富む視点という意味のこともある。通常は、人がわくわくするような価値のあるもの ― 独創的な作品を意味している。

Japan Infoのサイトは、3人の「論争の的になる作家」について注意を促していて、村上もその中に入っている(3人というのは村上、よしもとばなな、村上龍)。
(※元記事:あなたが知っておくべき3人の日本人作家 | Japan Info(英語)

----- 引用ここから -----

日本に行く機会があまりない人でも、日本の文化に浸る方法はある。マンガとアニメにそれほどのめり込んでいないなら、サムライ、女子高生、アニメといったステレオタイプを除いた本当の日本に出会う最良の方法は、戦後文学だ。

現代の日本で最も有名な、そして恐らく最も論争の的となっている作家、村上は、しばしば奇妙で超現実的な物語を書く。『ねじまき鳥クロニクル』、『ノルウェイの森』、『ダンス・ダンス・ダンス』といった旧作から『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』、『1Q84』といった最近の著作まで、すでに多くの作品が翻訳されている。

----- 引用ここまで -----

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村上の本を読むと、彼の原作、肉声を経験することになる。なんと創造力あふれる精神! 村上の言葉の選び方には、日本人が「論争の的になる」と呼んで尊重するものの広い意味に囚われるほどの、鋭敏かつ遠大な精神に乗った官能美がある。


村上春樹は日本で高い評価を受けている。

彼はその作品で世界中の称賛を受け、日本人は彼を熱烈に誇りに思っている。

新聞は彼が受賞した賞についての記事をすぐに報道する。

例:2016年10月31日付、The Japan Times

デンマークの賞を受賞した村上、外国人嫌悪に警告を発し、人々に自分の「影」と向き合うことを促す
(※→元記事

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----- 引用ここから -----

現代日本で最も有名な小説家であり、しばしばノーベル文学賞候補としてもてはやされている村上は、日本の原子力依存といった社会問題に対する考えを語ってきた。

英語で行われた彼のスピーチは、アンデルセンの「影」にちなんで、「影の意味」と題されていた。

彼は、個人と同じように社会と国家にも立ち向かうべき影があると言う。

村上が「影」を読んだのは最近のことだが、このデンマークの作家が「これほど暗く、救いのない物語を書いていたとは思いもよらなかった」と言う。自分の影に徐々に乗っ取られ、取り殺されてしまう学者の物語だ。

「自分の影に向き合う必要があるのは個人だけではありません。同じことは社会と国家にも必要です。誰にでも影があるように、社会と国家にも自らの影があります」と彼は言う。「明るく輝く側面があるなら、それと釣り合いをとる暗い面があるはずです」。

村上はこう続ける:「自分の影とともに生きることを、辛抱強く学ばなければなりません。時には深いところで、自分の暗い面に立ち向かわなければなりません」。

「そうする必要があるのです。そうしなければ、遅からず自分の影のほうが強くなり、ある夜戻ってきて家の玄関をノックするでしょう。『ただいま』、と影はささやくでしょう」。

村上は小説を書くことを「発見の旅」と呼んで、その際に「まったく予期しない自分自身の像、自分の影に違いないもの」と出会うことがあると説明する。作家としての役割は率直なやり方で「この影を描く」こと、それを自分の一部として受け入れること、そして読者と共有することだと言う。

人は自分の影と向き合い、立ち向かい、協力さえする必要があると言う。そうしなければ成長と成熟が妨げられるからだ。

そして最悪の場合、アンデルセンの物語の主人公に起こったように、人は最終的に「自分の影に殺されて」しまうこともありうる、と付け加えた。

賞の選考委員たちは、昨年11月に村上を2016年の受賞者に選んだとき「古典的な物語の技術、ポップカルチャー、日本の伝統、夢のようなリアリズム、そして哲学的な議論を大胆に混ぜ合わせる能力により、彼はアンデルセンの遺産にぴったりの相続人だ」と言った。

過去の受賞者には『ハリー・ポッター』シリーズで知られるJ・K・ローリング、『真夜中の子供たち』や『悪魔の詩』の著者サルマン・ラシュディがいる。

賞金として計50万クローネ(73,800ドル)がつく。

『1Q84』、『海辺のカフカ』、『ノルウェイの森』といった村上の作品は数百万部売れ、多くの外国語に翻訳もされている。

----- 引用ここまで -----

CPH Postオンライン
(※CPH Post=コペンハーゲン・ポスト紙。元記事

----- 引用ここから -----

オーデンセ、ハンス・クリスチャン・アンデルセン賞を村上春樹に与える
日本のベストセラー作家、栄誉ある文学賞の受賞のためデンマークを訪問


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2016年10月31日 午後6:04 | Kristina Liebute記者

日曜日、世界的に有名な日本の作家、村上春樹は、栄誉あるハンス・クリスチャン・アンデルセン文学賞の5人目の受賞者となった。

式典

オーデンセ市庁舎で行われた式典では、オーデンセ交響楽団、オーデンセの王立デンマークバレエ学校、デンマーク国立少女合唱団、ヘレーネ・ブルームとハラール・ハウゴー、デンマークの女優エレン・ヒルシングソによるパフォーマンスの後、マリー王子妃が村上に賞を授与した。

賞の栄誉に加えて、村上は女性彫刻家スティーネ・リング・ハンセンがデザインしたブロンズ製の小像と、「白鳥の美」と題する賞状、そして50万クローネの小切手を受け取った。

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村上の文体

村上の受賞スピーチは、アンデルセンの物語「影」(1847)に触発されたものだった。彼は自作とアンデルセンの作品の比較を引き合いに出し、創作の本質を深く掘り下げて語った。

「小説を書くとき、物語の中で何が次に起こるのか私には分かりません。そしてどう終わるのかも分かりません。書きながら、私は次に起こることを目撃するのです。そのため、私にとって小説とは発見の旅です。ちょうど物語に耳を傾ける子供が、何が次に起こるのだろうとわくわくするように、私は書きながらそれとまったく同じ興奮を覚えるのです」と村上は言う。

「『影』を読んで最初の印象は、アンデルセンもまた何かを『発見』するために書いたのだ、ということでした。物語がどう終わるのか、彼にも見当がついていなかったと思います。彼は影が自分から去っていくというアイディアを思いつき、それを物語を書くための出発点として使い、その先どうなるのかは知らないまま書いていったという感じがします」。

村上はJ・K・ローリング、パウロ・コエーリョ、サルマン・ラシュディ、イサベル・アジェンデに続き、2007年に始まったこの賞の5人目の受賞者となった。

----- 引用ここまで -----



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■回答者4(ベトナム)
村上は親西洋的な作家なのよ。注意して見れば分かるけれど、彼の描く登場人物は浴衣も着物も着なくて、代わりにリーバイスのジーンズとNIKEのテニスシューズを身につけている。主人公たちが読む本はカフカ、カート・ヴォネガット、レフ・トルストイで、俳句や短歌には何の愛着も示さない。映画や音楽、そして本の隅々に至るまでの好みについても同じことが言える。村上自身もその登場人物に似ている。実際あるインタビューで、父親とは高校の国語教師だったこともあって仲が良くなかったと発言したことがある。彼は日本の伝統的な文学を、個人を制約するもので、また個人というものがなく、自分のスタイルとは正反対だと言って批判した。村上は処女作以来、社会的な絆を犠牲にしてまでも、個人の自由を非常に重視してきた。

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もう一つ興味深い事実として、彼は最初の本『風の歌を聴け』を英語で書いて、その草稿を日本語に翻訳した。村上は、日本語訳版のほうが最初に日本語で書いた退屈でさえない草稿よりずっと良かったと告白している。また日本語への翻訳は自分独自のスタイルにとって決定的な要素だと明かしてもいる。

以上すべての理由から、日本の批評家の中には、村上の作品を民族意識の否定だと考える人もいて、これが村上をめぐる論争の台風の目になっている。私が知る限り、彼自身はこうした批判に反応したことはない。そしてこの点をはっきりさせようとしなかったので、雑多な論評が雑草のように勝手に育ち続けている。

個人的には、村上の論争について気にしたことはない。ある程度有名で成功した人は、誰でも論争の的になる。良い文学には新奇さがある。そして新奇なものが登場したときには、常に冷笑的な見方が現れる。世の中そういうものよ。

ところで誰か、批評家どもにやるべき仕事を与えてやってくれない? :)



■回答者5
それ誰から聞いたの? 何て言ってたの? どういう立ち位置の人? 私たちはその場にいなかったし分からないんだから、その人たちが言っていたことは、自分の批判的思考力を使って判断してもらいたい。

村上春樹が最初の本を出したとき、彼には独自のものがあって、西洋の読者は日本人の書いたものについてある固定した考えを持っていたから、異常なものだというふうに理解した。でも日本では、彼が論争の的になっているという話は聞いたことがない・・・彼のスタイルも、私は特に独特だとは思わない。つまり、たしかに彼のスタイルではあるんだけれど、同時代の作家の作品とまったく同じような文体だと思うし、批評をちょっと調べてみてもそれほどの論争は出てこなかった。

でも彼がいかに良い作家かという批評や論評が一つ目に入るごとに、彼が過大評価されているという批評も一つあるのは面白い。みんな意見があるわけね。

アーティストのムラカミ・タカハシ(※村上隆の誤り)は、「スーパーフラット」という、芸術とポップアートの融合で論争に火をつけた。彼の作品は大好き。



翻訳元:Quora



入院してた時に暇でしょうがないので『ノルウェイの森』を読んだんですけど、図らずも大感動でした。



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ノルウェイの森 (講談社文庫)



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